愉快な仲間たちの、愉快な小咄。

愉快な仲間たちが愉快な小咄をします。

サボりすぎです。

こんにちは。🐻です。

 

お久しぶりです。

ここ数日、みんな忙しかったのか、単純に忘れてたのか、理由は様々だと思いますが、全くお話ができませんでした。

すみません。

 

でもまあ、みんなで自由気ままにやっていこうというのがこのブログのスタンスなので、無理する必要はないんですけどね。

ということで、今日も自由気ままにやっていこうと思います。

 

🐻は大学院生をやっています。

今年は、「アイデンティティ形成」について調べようと思っていて、それに関連する学術論文を読んでいます。

内容自体は、とてもおもしろく、なーるほどとか、確かにとか、納得するものや、自分の身に覚えがあるようなことに名前がついていることを知り、へえーっとなることがあります。

 

それと同時に、自分について考えることが多くなりました。まあ、調べようとしていることが「アイデンティティ」なので必然的に自分に置き換えて考えることが多いからだと思います。

 

「自分ってどんな人間なんだろう」とか「どんな奴になりたいんだろう」とか「他の人からはどんな風に見えてるんだろう」とか一度は考えたことがあると思います。

 

アイデンティティ」に関する詳しい内容をここでうまく伝えられる自信がないので、割愛します。自分がそもそもそこまで理解できていないので、ははは。

 

ひとつ言えることがあるとすれば、

「自分は自分を語ることでしか、自分という存在を保つことができない」ということです。

 

いや、何を当たり前のことを言っているんだ。と思われるかもしれませんが、他者に自分が自分であるという証明をしてください。と言われたとき、どのようにして自分を証明しますか?

 

市区町村にある住民票を使いますか?国で発行されているマイナンバーカードを使いますか?

データとして認識されているその書類は、本当にあなたを証明するものですか?

 

これ以上言うと、この人疲れているんだろうなと思われそうなのでやめておきますが、何が言いたいかというと、自分が自分であるという証明ができるのは、自分自身が語る言葉だけだということです。

そして、その自分という存在を存在させてくれるのは、その語りを聞いている他者だということです。

 

自分を存在させるためには、他者が必要。

仲が良い、悪いは関係なく他者というものに対し、依存的で相互的な関係であるということです。

 

人という字は人と人とが支え合って生きている。

昔の言葉は、本当に本質を捉えているなあとしみじみ思います。

 

怖いほどに。

 

 

 

 

嫌いじゃないけどね。

 

担当:🐻